本音を出す必要、って、果たしてあるのだろうかという。

東京からやってきた、会社の同期と飲みに行っていた。

飲むたびによく、私を評して言われるのが「喜怒哀楽を出さない」「本音が見えない」ということである。その人に限らず、割と複数の人から、似たようなことを言われることがある。

 

これは個人的な意見なのだけれど、コミュニケーションにおいて100%見え透いてしまう、ということが、自分についても相手についてもあんまり好きじゃない。

世間的には「深く仲良くなる≒意見や感情をすべてオープンにする」という考えを持つ人が多いみたいだけど、私は長く付き合っていく秘訣として「未知数な部分が常に介在する」ということの必要性を感じている。

 

人との会話には、一定の緊張感が必要だと思う。ダラダラと実もオチもない会話をする、というのは、個人の信条としては受け入れがたい。

常に相手が考えていることや感じていることを知りたい、引き出したい、というモチベーションがあるからこそ、会いたい話したい、という考えにつながっていくのではないかな、と。

逆に言えば、その感覚を周りの人にも思わせたい、というのが本能的にはたらいているのかもしれない。

まぁ、それがゆえに感情が見えなくて本音でしゃべってくれない人、という、ややネガティブな心象につながってしまうのだけど。

 

でも、よく誤解されるんだけど、自分から、ひけらかすような真似はしないけれど、ちゃんと訊かれたことにはちゃんと答えますよ、と。

ちゃんと答えたい質問を振られるかどうか、という問題はまた別にあるのだけれど、それはまたの機会に、ということで。

 

「2勝1敗」で十分なんだろうな、とおもう。

プロ野球中日ドラゴンズの監督として、8年間の在任中に4度のリーグ優勝、2007年には53年ぶりの日本一に輝いた落合博満氏。退任後に着任したGM(ゼネラル・マネージャー)としての手腕には賛否両論があったが、それでも監督としての氏の手腕には疑いの余地はない。

 

落合氏が監督を勇退したころ、ドラゴンズの投手コーチとして、また落合監督の「参謀」として、チームの躍進に貢献した森繁和氏とともに、よくテレビ番組にゲスト出演していた。

その際の話として、特に印象に残っているのは「2勝1敗でいい」という話である。

 

半年以上、140試合あまりに渡る長いペナントレースにおいて、優勝ラインとなるのは毎年80~90勝。裏を返すと、50勝以上もの試合に「負けても良い」という計算になる。

シーズンをトータルで考えて、勝つべきときに勝つ、負けてもいいときには負ける、そういったある種の割り切りが重要なのだという。

 

(対照的といわれているのは、長嶋茂雄氏。球場に観戦に来たファンたちのなかには、生まれて初めて、あるいは一生に一度のプロ野球観戦、という人も居るかもしれないから、すべての試合で勝ちに貪欲に、全力を尽くさなければならないのだ、という発想をしていたのだという。

さすが「ミスタープロ野球」だと思わされる限りではあるが、今回は落合氏の思考法を参考事例として採用させて頂くことにする)

 

自分の仕事にも、その発想は活かせるな、と最近、思う。週に5日の勤務日があり、常に10個以上のプロジェクトを同時に担当させて頂く、という環境下において、常時フルスロットルですべてのタスクと向き合う、ということは、理想形ではあるが現実的ではない。本当に自分の心技体を100%出して、それでも足りない、というようなものもあれば、そこそこで「こなせる」という類の仕事もある。

野球とは違って「負け」という表現が正しいのかはわからないけど、すべての局面でパーフェクトな自分を発揮する、ということは、正直無理なのだろうなと思う。

 

すべてがすべてを完璧にこなそうとして、追い込まれて、ストレスがたまって、自滅していく。というくらいなら、3試合に1回くらい負けるくらいが、ちょうどいいのかもしれないな、と。

会社員で言うと、週に5日勤務日があるから、3勝2敗、くらいかな・・・? 勝率6割を、安定的にキープしていけるように、精進していきたいなと思う、今日この頃である。

テン年代を振り返る、と語るには仰々しすぎるし身分不相応なんだけど

いわゆる「テン年代」が終わった。これは、平成が令和に変わったということよりも、個人的にはすごく大きなことだったりする。

 

2010年の1月1日、奈良の実家からママチャリに乗って、ひとり京都・北野天満宮に初詣に出かけた。往復100km以上。受験生だった僕は神頼みでも運頼みでも、何でもいいから、志望校に受かりたいと。ただただその衝動だけで、真冬の夜道を、自転車で飛ばした。

 

その3か月後の4月1日、僕は早稲田大学の入学式に出席していた。19年間、奈良の田舎で暮らしていた僕にとって、東京の街で見るヒト、モノ、コト、そのすべてがとてもキラキラと映っていた。

大学の4年間(結果的に4年半になったわけだけど)を何に賭するのか? と、考えた結果として、僕はサークル活動にのめりこんでいくこととなる。

 

「早稲田リンクス」――「人と情報の交差点」をスローガンに掲げるこのサークルをきっかけに得た経験、出会い、その他いろんな物事が、その後の10年間を決めていったといっても過言ではない。

この団体が、何をやっている団体なのか? と考えたときに、あてはまるピッタリな言葉、説明を、僕は10年経ってもまだ見つけられずにいる。外の人から形容されるときには「フリーペーパーサークル」とか「イベントサークル」とか。諸々ひっくるめて「企画サークル」とか言われたりするけど、そのすべては合っているようで、合っていないのかな、と、個人的には思う。

 

僕がリンクスで、一番影響を受けた価値観、視座というのは「企画は手段」ということである。

(いや、サークルなんて価値観はそれぞれだから、デザインを極めたいとか、文章をとにかく書きたいとか、学祭でライブイベントやりたいとか、企画・制作物そのものを目的化していた仲間も一定数居たんだけど。それはそれとして、今回は自分自身の感覚を書き連ねることにしてみる)

 

新しいフリーペーパーを発刊するにも、学園祭でイベントを実施するにも、当時避けて通れなかったのは「承認会議」という場だった。ある企画について、「誰に対して、何を伝えて、どういうふうに態度変容させたいのか」プレゼンテーションし、徹底的に議論する。会議に出席したメンバーの満場一致の賛成が得られない限りは、提案した企画が日の目を見ることはない。

「伝えたい想い」が目的としてあって、それを発信する手段として「企画」がある。その双方の整合性、妥当性があって、初めて承認される。

 

毎週水曜の夕方から実施されていた会議。僕が提案した企画が、その週に通らず、翌週に持ちこまれたこともあった。当時、厳しい意見や質疑を投げかけてきた人たちが、いくぶん悪者に映ってしまったことも、正直あったけど、あのとき試行錯誤したことが、その後にすごく大きな影響を与えた、と感じている。

 

2015年4月1日、僕はPR会社に入社することとなった。「PR」というものに興味関心を抱いたきっかけは、たくさんあるんだけど、根底にあるのは、早稲田リンクスで得た感覚や価値観なのかもなと、改めて思う。

それは、伝えたい事柄があって、それを伝える企画があったとして、その企画の形はなんだっていい、というある種のニュートラル性が共通している、ということだ。

そして「PR会社って、何をやっている会社なんですか?」という問いに、入社から5年経っていまだにいまいちよく理解できていないあたりも、リンクスと似ている。

(ちなみに。リンクスの先輩同期後輩、見渡してもPR会社にお勤めの方は、僕が知り得る限り、一人も心当たりがないのだけど・・・)

 

 

テン年代が終わった。手段、とは言ったものの、結局のところつい目的化してしまってきた「企画」というものに取りつかれて、かれこれ10年が経とうとしている。

どうもセンスがないのか不器用なのか、あるいは単に怠慢なのか、国際的なイベントに縁はなく、業界の賞典に輝くこともなく、あれだけ憧れた東京の街からは2年前に追放されて、奈良の実家でこの文章を打っている。

この10年間が良かったのか、どうなのか、わからないけど、学生時代と似たようなことをやって、それなりに楽しく仕事をしている僕は、どうやら贅沢なやつなんだろうなと思う。

 

20年代が、そして20代最後の一年が始まる。この文章を打っているのは、僕もそれなりにこの歳になって「これからどうすんだろうなぁ」と、物思いにふけることも少なくないから、思考整理がてら、ということで。

でも正月休み10日間、いろいろ考えてみたんだけど、たぶん似たようなことやって次の10年間も過ごすんだろうなと、思う。自分がどうなりたいとか、ライフイベントとかキャリアとか、そういう難しくて面倒なことは、よくわからない。なるようになる、と思っている。

一個だけあるのは、さっきからさんざん書いているその企画というやつを、もっと徹底的に極めていきたい、ということ。知識、知恵、教養、その他もろもろ、ただただよりよい企画を作っていきたい、ということに捧げていきたいなと、いま一度、そう思う。